昭和四十三年八月二十六日 朝の御理解
X御理解第七十八節「神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら、家柄一筋となって、これが神の機惑に叶うたのじゃ。神の機惑に叶わぬと身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢こうて身代をみたすことがあり、また、大切なものが死んで身代を残して**をきらしてしまう。神のおかげで知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大思を知れば、無事達者で子孫も続き身代も出来、一年まさり、代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
この理解を頂いておりますと、金光様の御信心をさせてもろうて神の機惑に叶うた氏子になると神様のお心に叶うた氏子にならせて頂くと言うことがこれはどういう様なことかという事になるわけです。神の機惑に叶わぬから、人間と身代と達者とがたらわない。金光様の御信心をしておるから、おかげで健康でございますと言うても身代がなかったら、おかしい。金光様の信心をしておりますから、お金には不自由しません。商売も繁盛しておかげを頂いております。と言うても達者でなかったら、これは、金光様の信心頂いておる値打がない。金光様の信心を頂いておっても人から、「あの人が」と言われるような人間ではよし身代を頂いておっても健康を頂いておってもこれは、年優り、代替りといったょうなおかげの元にはなっていかない。金光様の信心を頂いて、ここんところをどうぞ神の機惑に通うと言うことはどういう事であろうかと一つ私はわからしあてもらわないといかんと思うですね。神の機惑に叶うと言うことはどういう事であろうか。お互いが御祈念の内容の中に「どうぞ、日優り、月優り、年優り、代優りのおかげを頂かしてくだされー」と言うてお願いをそう意味の事を願われるなら、願わにゃあ、いけませんけど、日優り、月優り、年優り、代優りの大おかげを頂かして下さい。ただそれを一生懸命願うならば、願うただけじゃいかん。その願い成就するようなおかげを頂かなければ。だから、願ごうておきさえすれば、成就するというだけじゃない。結局ここには神の大思を知らぬから、互い違いになって来る。信心して神の大思を知れば、無事達者でとおっしゃるが、神の大思を知ると言うこと。神のおかげを知ると言うこと。神の大思を知るということがこの事が分かることが神の機惑に通うということになるのじゃないでしょうかね。神の大思を知る神のおかげを知ること、そこに煎じ詰められてくるわけですね。そんなら、神のおかげを知るということは、どういう事であろうか。神の大思を、知らぬからとおっしゃるが、神の大思とはどういう事であろうか。そこんところが分かって信心すりゃあ、年優り、代優りのおかげが受けられる。しかもそれが三代いよいよ続いたときに初めて家柄、人筋となって神の機惑にもう家全体が神の機惑に叶うということになる。合楽で現在頂いておる教えを本当に各々なものにしていけば、間違いなく神の機惑に叶う。そこで合楽では、どういう様な事を焦点にわからして頂いておるかと教えて頂いておるか。今日へ七十八節の一字一句の上の理解というのではなくて、七十八節を頂いて神の機惑に叶うた氏子、神の機惑に叶うた氏子になって神のおかげを知り、神の大思を知れば、子孫も続き身代も出来、年優り、代優りのおかげが受けられるとおっしゃるが、神の機惑に叶うた氏子とはと言うことに、ここでは頂かなければならん。何時も心に神のお守りを受けておるということを実感すると言う。「信心する人は常に守りを心にかけておれよ」と信心する人は常に守りを心にかけておれよ。お守り様をそれをかけておるのではなくて、心にかける。まあ、世界中の氏子が受けておることですから、おかげは金光大神のお取次の働きの中に何時もあるということである。まあ、それを言うならば、何時も親先生の祈りの中にあるということである。そうすると、どういう事になるでしょう。親先生の祈りの中にある。それは、目の前には困った事の様に見えたり、難儀に見えても、金光大神のお取次いわば、その圏内であり、祈りの中にあるのだ。先ず、神の機惑に叶うた氏子と言うのはね、そう言う心が分かること、それをいかにも神様の働きがあっていないように思うとるお取次の働きがあっていないように思うとる。お取次の働きがあっておるから、ああなって、こうなっておるのだ。ここんところをいよいよ確信できれる信心を頂かなければ、ならない。次には神と仲良うする信心ぞとこうおっしゃるが神様も親しゆうなるという意味じゃない。神様とあまり親しゅうなるとおかげを落とす。先生とあんまり親しゅうなりようるとおかげを落とすと昔から、言われておる。先生とあんまり親しゅうなるとおかげを受けられぬ。先生と仲ようする信心でなからにゃいかん。神様と仲ようする信心、仲様することはどういうことか。いわゆる仲を良くする。神様と私どもの仲を良くする。私どもと先生の仲を良くする。これは、親子、夫婦全ての事にあると思うですね。ここではね、例でいうならば、本当に親子にでもです。私どもは、苦は仇の生れ変りじゃあなかろうかというごと仲の悪か人がある。もう親子でも顔を見ると喧嘩する。顔を見るとむかっとする。もうその人の言うておる事、しておる事がしゃくの種になる。姑と嫁と行ったような場合もそれである。嫁の顔を見たら、つら見苦しゅうてたまらんというような姑がある。ばばさんの顔を見るとむっとすると言うような嫁もある。いくら夫婦が仲のよかったっちゃその親と仲が悪かったら、もう仲の良かとは言えない。それが親しいばっかりになってから、仲良うせんから、神の機惑に叶うというのはね、神様の御守護というのは、これは信心があってもなかっても頂いておるのだけれども金光大神の特別なお働きの中に私どもがあるということ。そのお取次の働きの中に痛いことも痒いことも腹の立つことも情けない思いを刷ることも走っておるんだ。だから、それをどう見るかどう頂くかね。昨日特別奉仕員の方々の御祈念の後に頂いた御理解の様にその事によってその事を修行としてもらうその事を今あなた方が難儀と思うておるその事を修行させてもらうんだ。あなた方が難儀と思うておるその事をもってわからして頂くのだ。何を分かるかと言うともちろん自分を分かる。自分の事をもって自分がわからにゃいけん。だから、その事をもって修行の第一とさしてもらう。今まで難儀を感じておってそこから抜け出そうのじゃあなくて。その事を神様修行とさして頂きますと、その事をもっておかげでこういう事がわからして頂きました、と自分と言うものをいよいよ掘り下げていく。それがです。金光大神特別の働きを頂いておるという私は実感がないとそこになってこないと思う。金光大神の特別のお働きを頂いておる。いわゆる心に神様の守りをかけておらねばならない。「信心する人は常に守りをかけておれよ。」信心する人は常に守りをかけておれよ。その守りをはずしておるから、それがわからん。お取次を頂いてお取次の働きというものがです。そこまでお取次の働きと言うものを信じさしてもらうところに金光様の御信心がある。そこが出来るところに神の機惑に叶うた一つの条件が揃う。次にいよいよ神と仲ようする信心をしていかにゃいかん。そこでこの人は前世では仇周志じゃあなかろうかというような場合であってもです。そのいわばそこに仇という討つとか討たれるとかいう像が出来たのだから。その像を大事にしていくと言うことが仲を良くする事なんです。その人と**なると言うことじゃあない。その人がそこに負ってくれるから、何時も自分と言うことを深く見ていくことが出来るのである。これが親しゅうなってごらんなさい。もう親しゅうなったら、もうおしまい。親しゅうなったら、もう赤裸々になりすぎる。だから、親しゅうなるといわば、今度はそれが鼻につけてくるようになる。信者と先生と先生をあんまり先生と接近すると頭が下げられんことになる。適当なところに間隔をおいとくとこれが頭が下げられるようになる。あんまり親しゅうなりすぎると頭が下げられん。だから、おかげを落とすようになる。そして、いわば、鼻についてくる。お互いの欠点があらがあまりにもみえてだしてくる。そこで、ここんところはね、親しゅうなるでなしに仲良うしていかにゃいかん。仲良うということは先生と信者との仲を良くしていく。仲を良くしていくその間を。それはたとえば、よし仇同士の仲であってもその仲を良くしていく。その仲を良くしていくとと言うことはあの人がおってくださるから、あれがおるから、自分が気をゆるめんですむとか、おの人のおかげで自分が修行が出来るとかあれのおかげで自分がいよいよ深めることが出来るとか、それが仲を良くすること。あなたのおかげで言う。私はね。今日は神の機惑に叶うと言うことはね。そう言う信心の根本というものを先ず身につけなければいけない。お取次の働きというものをそのように確信でけれる。信心をまず、頂かなければならない。そして、ここで言われておる。信心をいよいよ身につけていかなかればならない。例えば、成行きを大事にするという信心をですねと言うようなことが今私がもうしますような神の機惑に叶うという信心の内容と一致するのです。その位信心は身につけておかなければいけない。それは、あか抜けしないということはある。もう、あの人はおかげで自分が深められると思うけれども、やっぱり苦しい。やっぱり歯がゆい腹が立つ。けれども、それを辛抱して辛抱しぬいていく中にです。私はいわゆる人間と言うものが出来て来るのじゃあなかろうかと思うのです。それを辛抱して生きよるところにいわゆる人間が出来て来る。根性の悪い人は根性がよくなる。だらしのない人はしゃんとしてくる。実意のない人は段々実意丁寧になって来る。その苦しいなら、苦しいのを辛抱していくうちに人間が出来て来る。人間と身代と達者とおっしゃる人間が出来て来る。それが、やっぱり人柄一筋なのである。私どもがそういうくぐりの中に苦しみながら、そういう人間が出来て来る事によってです。それが子供に*に伝わっていく。そう言う人がある。それが人類一筋と言うことになる。これはもう仕方がない事なんですよね。子供が親に似るということは、これは血統だけじゃあなか。そういう雰囲気の中にあるから、ちゃんとしてくるです。血だけじゃあない。やはり、お父さんの生き方、お母さんのあり方と言うものを子供達がちゃんと身につけてくる。それがいわゆる人柄一筋となってくる。そこに人間と身代と達者と言うことがですね、約束されている。もちろん、そういう事になって来るときに達者の方へおかげを頂くであろう。それが三代続いたら、神の機惑に叶う氏子をこうおっしゃる。そういう神の機惑に叶うた氏子でないのは神の大恩をしらぬからであり、神のおかげを知らぬからである。その大恩を知り、おかげをわからして頂くためにもです。ここの78節の神の機惑に叶うというこの全体のこれを一つ一つを私達は今日説明せずにここんところから持ってきて心に守りをかけておれ。そう言う所から、もってくる。そして、その事が出来て初めて神の機惑に叶う私であることになる。それは、何時もお取次を頂いてお取次の働きの中に私はあるのだという実感なんです。その確信なんです。それがたとえば、どういう事であっても、同時に神と仲良うする信心仲良うすると言うことは親しくするということじゃあないこと、今日私はもうしましたですね。お互いが適当に例えば、これは夫婦でも適当にお互い尊敬しあえれる、頭が下げあえれる、仲を作っていかにゃあいかん。親しゅうなることによってかえっていうなら、門論げんかというなら、親しゅうなりすぎるからなんです。もうあの人達は兄弟の様に仲良うしてござった。あまり親しゅうなりすぎていわば、お互いのあらが見えすぎてそれが鼻についてくるところから、嫌気がさしてくる。親しゅうなるのじゃあいかん。ここは、仲良うなっていくという信心、その中を良くしていかなかれば、いかん。仲を良くしていくということはあなたのおかげでというのである。それは仇のような人であってもさせてもらえるというようになることがその人の仲を良くすること。そういう私は精進させて頂よる仲に人間が出来て来る。人間が出来て来れば、もう絶対に金光様の御信心はね、身代と達者とは約束されたようなもんなんですよ。ここにはじめてです。神様の大恩をいよいよ知ることができるであろう。神様のおかげをおかげとして受けることができるであろう。あの様な事と想っておったけれども、あの様な事の仲にもこういう神愛があったとあの様な中に私をこのようにおひきまわして下さるおかげの元で合ったと言うことがわかってくるから、本当にあれもおかげであった。これもおかげであった。これもおかげであったと神のおかげをおかげと分かることが出来ると神のおかげがわかる。神の大恩がわかってくる。だから、いくら御祈念の中に日優り、月優り、年優り、代優りと言うて繰り返し繰り返し御祈念をしましてもです。これは効果が薄い。その日優り月優り年優り代優りのおかげの頂ける私は元は先ず何というても神の機感に叶う私になることを目指さなければならないと言うことですよね。どうぞ。